「薬害イレッサ訴訟」で、東京高裁は、11月16日、製造販売元であるアストラゼネカ社(以下ア社)と国の責任を一切認めず、原告の請求を全面的に棄却する判決を下した。
本年3月(速報No145)、東京地裁の判決の前に、述べた危惧「医学的観点からの問題点を明確にしない限り、 国の責任はあいまいになったまま終わるであろう」が現実のものとなってしまった。
これでは今後、この国から薬害は永遠になくならない。
イレッサの「医学的観点からの問題点」とは、その開発前の段階から、動物実験、治験段階、承認前後、市販後の臨床試験を医学的な面から系統的にみた、イレッサそのものに内在する著しい欠陥のことである。欠陥隠しの方法は、
などである。
註:イレッサで肺が傷害されると、細菌性・真菌性肺炎からの修復が不能になり、急速に悪化するため、これもイレッサによる副作用である。東京高裁判決では、真菌性肺炎(ニューモシスチス肺炎)を合併した被害者を、「イレッサは無関係」としたが、「因果関係はある」と判定しなければならない。
こうしたあの手この手の工夫(データ操作)による見せかけの「有効性」「安全性」、欠陥を徹底的に隠した結果、「必要神話」・「安全神話」がつくられた。
イレッサ薬害は、毒性試験や臨床試験の方法とともに、毒性所見や有害事象との因果関係の評価方法を根本的に考え直さないといけない課題をたくさん明らかにした。今後の薬害を防止するためには、その課題の解決がなにより重要である。
原子力発電は、最高レベルの安全性を確保したとしても、技術そのものに内在する危険性を取り除くことが不可能である。イレッサにも同様に、添付文書で安全対策をいくら丁寧に行っても回避できない危険・害が内在している。
そして、原子力発電が、企業はもちろん、学者も国もこぞって、データを捻じ曲げてでも安全性を強調してきた結果が、今回の福島原子力発電所の炉心融解事故であった。
原子力発電の危険性は40年以上も前から分かっていたのだが、本質的に内在する危険性を指摘する発言を、「ごく一部の科学者の特別な考え」として、マスメディアも黙殺してきた。しかし、その「ごく一部の科学者の意見」が、実は最も真実を語っていたということが、今回のフクシマ原子力発電所の事故で明らかになってきた。
原子力発電の「必要神話」・「安全神話」が作り上げられてきたのと同様、「イレッサ」の「必要神話」・「安全神話」も作り上げられていたのである。しかも、原子力発電同様に、データ隠し、データのねつ造までしたうえでの神話作りの結果である。
「添付文書の記載が不適切であった」という問題に限定して議論をしている限り、この重大な薬害問題の解決はないと私は確信している。このイレッサ問題は、極めて重大であり、そのものに内在する問題点を、ぜひとも真っ向から議論し直していただきたい。
より本質的な議論の必要性が、今回の東京高裁の判決でいっそう明らかとなった。12月15日には大阪高裁で第2回控訴審が開催される予定である。
大阪地裁(2011年2月)や東京地裁(同年3月)にア社あるいは国に対して認めた責任は「イレッサの承認初期に致死的可能性の警告が不適切であった」という点であった。
すなわち、イレッサとの関連が否定できない間質性肺炎は、重大な副作用の項の最初に書くべきであり、致死的経過をたどる可能性について、第一版の添付文書の警告欄に記載すべきであったが書かなかった、というものである。
これに対して高裁判決では、「重大な副作用」欄に「間質性肺炎」が書かれていたのであり、がん専門医や抗がん剤治療医なら、「間質性肺炎が発症した場合、それが致死的になりうることを認識していたということができる」とし、製造物責任法上の欠陥には当たらない、とした。
しかも高裁判決では、その前提として、地裁が認定した「副作用例」は「因果関係が否定できない例」も含む「可能性」「疑い」例であり、これは薬事行政では使用されるが、法的にはそうした「判定基準は存在しない」とした。そして、製造物責任法上の責任を求めるには、「可能性」「疑い」でなく「因果関係がある」と判定されなければならないとし、イレッサ販売当初、間質性肺炎の因果関係は「可能性」ないし「疑い」がある例はあったが「因果関係がある」と認定できる症例は存在せず、したがって、民事上の損害賠償は認められないと判決したのである。
東京高裁判決でも、承認当時も現時点でも、有効性が危険性を上回り有用性があるとした。しかし、その論理は、おどろくべきものである。
イレッサの延命効果は証明されていないから有効性は認められない、との原告の主張に対しては、地裁での論理を踏襲して、イレッサが非小細胞肺癌に対して腫瘍縮小効果を発揮すること、非小細胞肺癌の化学療法における腫瘍縮小と肺癌患者の延命可能性との間に有意な相関がある(原判決に記載のとおり)」との理由のみで、退けている。
また、EGFR遺伝子変異ありでも延命効果は認められていないし、遺伝子変異なしの例では明瞭な著しい延命短縮効果を認めている事実には何も触れていない。そして、「日本人については、EGFR遺伝子変異が陰性の場合にも14%程度(腫瘍縮小)効果があるという臨床研究の結果もあり」と述べ、この場合にも有効であるかの論を展開している。
腫瘍縮小効果とは逆転した「生存期間短縮」の事実がイレッサで明らかになったにもかかわらず、企業と利益を一にする学者らの研究を唯一の根拠に、企業擁護のために無理な論理を展開している。このような論は徹底的に批判し、撤回させなければならない。
ではなぜ、地裁と高裁でこれほど異なる判決結果がでたのであろうか。私は、判決には反映されなかったとしても、地裁で指摘された「イレッサのもつ本質的欠陥」の議論の差が出たのではないかと考えている。
私は、2002年に間質性肺炎による多数の死亡者が出たとの報道に接して以来、すぐさま資料を取り寄せ、イレッサの承認の是非を医学的立場から検討した。申請資料概要をメーカーから取り寄せ、それに疑問があれば、メーカーに質問したが、肝腎のことにはメーカーは答えないために、厚生労働省に情報公開法を用いて資料開示を求めたが、拒否され、裁判で訴えたが拒否された。
しかし、被害者家族による民事裁判の進行に伴い、メーカーが開示せざるを得なくなった資料や、文献を詳細に検討した。
イレッサ薬害の裁判では、これら検討結果を基礎に、2007年2月から、合計6回、事実と証拠に基づいた意見書を書いた。また、大阪では4回、東京でも2回、合計6回法廷に立ち証言した。国や企業の代理人の反対尋問に対しても適切な反論をしている。さらに、私の意見書や証言に対する国や企業側の学者証人の証言や意見書に対して、徹底的に批判を加えた意見書を提出している。こうした意見書や証言では、イレッサの害が有益性を上回ること、承認当時の知識からしてもその害に気づくことができ、承認そのものが不適切であったことを、事実に基づいて述べた。
結果的に、1審判決でも採用されなかったが、裁判官は私の証言を直接聞き、国や企業代理人の尋問に対する私の反論を聞き、「イレッサそのものに本質的な問題がある」との考え方が、頭のどこかにはインプットされているはずである。しかし東京高裁では、そうした情報をたとえ読んだとしても、紙の上である。
表面的には、本質論で、地裁と高裁の判断は違わないものの、「情報提供の不備」の扱いに、本質論での理解の差が出たのではないかと推察する。
イレッサの本質的問題については、速報No145で詳細を述べたので、それをご覧いただきたい。
コクラン共同計画は、医療行為の利益と害の最も信頼できる証拠を提供することを目的とした国際非営利組織である。その目的を達成するために、全臨床試験の全データへの無料アクセスを求める声明を最近(2011年10月)発表した。声明文全文、プレスリリースなどはこちらを参照。その概略は以下のとおり。
臨床試験報告にはデータの選別(データ隠し)が頻繁なため、医療技術の益の誇張、害の過小評価につながっている。その結果、多くの患者が無効な医療を受け、不必要な害に遭っている。これは治療の改善のためにボランティアとして研究に参加した患者との契約違反になり非倫理的である。全臨床試験全データの速やかな公開と利用可能とするためのコクラン共同計画の提案は以下のとおり:
コクラン共同計画が強調しているように、厳正であるべき医薬品の臨床試験でデータ隠しが頻繁に行われている。世界的にはこれを変えようとの動きがある中、それを逆転させようとする今回の判決は断じて許すことができない。
私が参加しているコクラン共同計画のグループでは、タミフルなどノイラミニダーゼ阻害剤のシステマティックレビューグループを行っている。 このグループに対して、メーカー(ロッシュ社)は臨床試験データの提供を約束したが、そのデータを一部分提供しただけで、 全体を提供しない。何度請求しても、一部以外、提供には応じなかった。
そのために、限定的なレビューにならざるを得なくなったが、その限定的に入手したデータを解析した結果でも、数々の問題点が明らかになってきた。
最大の問題点は、臨床試験方法の根幹にかかわり、効果の過大評価につながる巧妙な方法が、全ての臨床試験で行われていたことである。 したがって、タミフルの全試験を問いなおされなければならなくなるだろう。
このことは、12月に発行される予定のコクランライブラリー(コクラン共同計画の出版物)に掲載されるシステマティックレビューにおいて詳細かつ明確に記載した。
こうした、企業がひた隠しにしてきた情報の開示を求め、薬剤の本当の効果と害を再検討する作業をしない限り、この世の中から薬害はなくならない。
今回の悪判決を教訓に、イレッサの「本質的欠陥」をいま一度問いなおし、真実を追及しようとしている世界の科学者とともに、本当に薬害を防止できる体制づくりを目指したいと考える。